叙述トリックの評価
マイナス評価にしかならないもの
作者特権を悪用した作品
作者特権を悪用すれば、表現上のルールに違反したり、作品世界の物理法則等を歪めることも可能である。 そして、作者特権を悪用すれば、プレイヤーに虚偽の情報を信じ込ませることも容易に可能である。 しかし、作者特権を悪用するなら、真実と異なる情報をプレイヤーに提供する、あるいは、真実に繋がる決定的な情報をプレイヤーから遮断することは、作者であれば誰でもできる。 それには、高度な文章表現など一切必要ない。 それは、唯の詐欺行為であり、トリックとは到底呼べない代物である。
ただし、そうした手段を踏み台としてのみ使い、それより遥かに高度な何かを仕掛けるのであれば、その高度な何かは高く評価できるものになり得る。 この場合も、当然、言うまでもなく、踏み台として使った手段自体はマイナスの評価にしかならない。
よくある稚拙な自称「トリック」としては、主人公以外の人物の視点での描写を、主人公視点での描写であると誤認させる手口である。
- 視点交代を何らかの手段で明示または暗示することはしない(表現上のルールに違反)
- 主観上の人物が当然知っているはずの自分が何者かの情報を遮断する
- 主観上の人物が聞くことができる本人の声を遮断する(物理法則の歪曲*1)
ネット上の評価では、このような作者特権を悪用しただけにすぎない表現を「優れた叙述トリック」として高く評価している事例が散見される。 しかし、すでに説明した通り、これは作者特権を手に入れれば誰にでもできることであって、高度な文章表現など一切必要ない。 誰にでも容易にできることを高く評価するのでは、評価のハードルが低過ぎよう。
表現媒体に依存した作品
特定の表現媒体でなければ物語が成立しないのであれば、それは純粋に物語を楽しむ作品とは言えまい。 何故なら、楽しむ対象が物語であるなら、楽しめるかどうかを決めるのは物語の内容であり、表現媒体ではないからである。 だから、特定の表現媒体でなければ成立しない作品は、その媒体における表現技法を楽しむ作品とは言えるかもしれないが、純粋に物語を楽しむ作品とは言えないのである。
以上を踏まえると、映像や音声があると成立しないのであれば、トリックのある物語を楽しむ作品としては評価に値しない。 ただし、文章による伝聞技法を楽しむ作品としては評価できる。 ここでは映像作品であるノベルゲについて記載しているので、当然、映像や音声があると成立しないトリックは評価に値しない。 そもそも、ノベルゲでは、映像や音声は物語を表現する重要な手段であり、それらを排除することは到底認められることではない。
余談となるが、しばしば「映像化不可能」が作品を褒める言葉として使われることがあるが、これは適切とは言えないだろう。 何故なら、「映像化不可能」とは、映像化に必要な情報を作者が提示していないことに他ならないからである。 そして、映像化に必要な情報を作者が提示しないのは、その内容を作者自身も把握していないからであろう。 例えば、「美しい風景」という表現は、その表現に匹敵する風景を作者が具体的に思い浮かべることができなくても、日本語が理解できれば書ければ誰でも書ける。 しかし、実際に「美しい風景」とは何を指すのか。 どのような種類でどのような色でどのような大きさの花がどれだけ咲いているのか。 どのような様式のどのような色のどのような形の建物がどれだけの数でどのような並び方で建っているのか。 どのような色のどのような形の岩肌があるのか。 どのような大きさの湖や海があるのか。 どのような時刻にどのように日差しが差し込んでいるのか。 それらが分かっているなら、それらを具体的に描写すれば良い。 例えば、「水平線まで続く橙色に染まった一面の美しいひまわり畑」と書けば、映像化に必要な情報を提示できる。 それができないから「美しい風景」の一言で済ませてしまうのではないか。 例えば、「誰もが聞き惚れる美声」という表現も、その表現に匹敵する美声を作者が具体的に思い浮かべることができなくても、日本語が理解できれば誰でも書ける。 これらは、表現対象の具体的中身を作者が理解できなくても、美辞麗句のための表現さえ知っていれば、誰でも書けることである。 言い換えると、描写を実現するために必要な作者の力量の不足を補うために、読者の想像力に甘えていると言える。 具体性を伴わない漠然とした表現で良いなら、いくらでも壮大なことが書けるだろうが、それには誰にでもできることである。
とあるゲームでは、下町の狭い曲がりくねった道を数十メートルの長さのリムジンが通り抜けるという文章描写がある。 ちなみに、そのゲームでは現実にありえないことが起きていることで笑を取ろうとしているので、その表現は許容範囲と言える。 しかし、それと同様のことを大真面目に文章描写したら、映像で表現していないことを悪用して、不可能を可能と強弁しているに過ぎない。 それは極めて荒唐無稽な「映像化不可能」描写であろう。
プラス評価になり得るもの
作者特権を悪用することはマイナスの評価になるが、悪用しない範囲での作者特権の行使はマイナスの評価にならない。 作者特権を行使しなければ、舞台、演出、台詞回し等の作品の描写は不可能である。 だから、作者特権の行使そのものがマイナスの評価になることはあり得ない。
作者特権を悪用しない手段によりプレイヤーに虚偽の情報を信じ込ませようとすれば、高度な文章表現等が必要になる。 高度な手口で欺くからこそ、高く評価できるのである。
作品中で起こり得る現象に基づいた推測の誘導
作品名を挙げると支障があるので、とあるゲーム作品における作者特権を悪用していない叙述トリックの概要を説明する。 その作品では次のような情報を提示して主人公(α)とβが同一人物であるとプレイヤーに思い込ませようとする。
- βの正体が判明するまでは、αとβは同時に出現しない
- βの正体が判明するまでは、αの視点とβの視点で描かれる(ただし、どちらの視点であるかは明示する)
- αは定期的に精神的カウンセリングを受診している
- ヒロインAがβとの同一人物疑惑をαに投げかける
- ヒロインBがβの姿を見てαの名字を呼ぶ
- αが持っていたはずの物が何時の間にかβに奪われる
これらの表現は作者特権で配置されたものではあるが、作者特権を悪用まではしていない。 序盤でαとβが同時に出現しないことは、出来過ぎたご都合主義とは言えるだろうが、表現上のルールに違反したり、作品世界の物理法則を歪めたりはしていない。 αが定期的に精神的カウンセリングを受診していることは、何らかの精神疾患の可能性を示唆しており、他の情報と合わせて、αとβが多重人格の別人格である可能性を伺わせる。 ヒロインBがβをαと誤認するのは、αとβが似ていて当然のある設定があるからであるが、その設定は、序盤から少しづつ小出しにされて、終盤には完全に明かされる。 αが所持していてる物がαが気づかないうちにβに奪われたことについて、序盤ではその手段が明らかにされない。 以上の複数の情報は、αとβが多重人格の別人格であると仮定すれば、全て矛盾なく辻褄が合う。 それ故に、感の良い人は、αとβが多重人格の別人格ではないか、それが隠された真相ではないかと推測する。 そして、自ら導いた(と思っている)結論であれば、人間の持つ性質として、それを疑いにくい。 世の中に陰謀論が蔓延るのも全く同じ原理である*2。 実際には、作者にそのように誘導されているのだが、誘導されている事実に気づかなければ同じである。 ただ、この作品には一点問題があり、αとβが別人であるとヒロインAは知っていたはずなのに、何故、同一人物疑惑を投げかけたかの疑問が解消されないまま終わっている。 これは辻褄合わせが十分でないことを示しているが、トリックの仕掛け方の良し悪しとは直接関係ない。
口実のある情報遮断とその口実に適合した情報提示
また、主人公が視認可能な情報を遮断する手段として「法律で見ることが禁止されている」という設定を導入したゲーム作品もある。 これは、作者特権を行使したかなり強引な設定ではあるものの、表現上のルールに違反したり、作品世界の物理法則を歪めたりはしていない。 そして、だからこそ、作品世界中で、時々、視認可能な情報の存在を仄めかす現象が発生する。
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